【其ノ二十九】脱・市場の奴隷

 最近世間は物価高です。わたしが住んでいる田舎町もガソリンや野菜が高くなってきました。キャベツひとつでこの値段!?と驚かされることもあります。なんでもモノの値段が上がってくる…と消費者の立場にたてば感じると思いますが、生産者の立場にたてばまた違った視点になります。もちろん、人件費、材料費、光熱費などを考えれば、物価が上がってくると(生産者としても、モノの値段が)高いなぁ…と思うかもしれません。そして利益の部分も少なくなります。ただ、人件費がかからず材料も自前であれば、あまり物価高それ自体のことは気にならなくなります。

 

 つまり、種を自家採取しており、家で野菜を育てていると市場にお世話になったり、市場に出すわけではないので、そのモノに関しては物価それ自体を感じなくなります。種は自家採取、水は天水で地植え、肥料は米ぬかや草木灰であれば…、市場を介さずに野菜を手に入れることができます。今年はサツマイモをたくさん収穫したので、スーパーでサツマイモを買うことは、少なかったかと思います。もちろん干し柿なども自作なので買うことはありませんでした。

 

 

 だいたい、ひと冬で40個くらいとれれば大人2人分としては十分ですね。まぁ人にあげたり、子どもが食べたりするので、多くても60個~100個くらいあれば、まぁ十分でしょう。スーパーで売っている芋を種イモにすることもできるので、ほったらかしでできてくれる芋(ベニハルカ)は最高です。しかも天水なので、水もやらず…本当にほったらかしです。

 

 

 さて、ですが芋だけを食べて生きていけるわけではありません。米も、別の野菜も、果物も必要になってきます。その際は貨幣をもって市場で交換しなければいけないのですが、まわりに生産者の仲間がいれば、交換したり、分け前をもらったりすることができます。たとえば、わたしの畑で育てている大根をあげたら、そのお返しにお米やお餅、野菜、キノコなどをもらったりすることもあります。それはその人が生産した米(や野菜)である場合もありますが、もうウチは米がいっぱいあるからという理由で、余剰の米というオコボレをもらうこともあるのです。

 

 

 また、それぞれが得意分野となっている入手ルートをもとに交換が行われたりもします。わが家は懇意にしている干物屋さんがあるのですが、そこの干物と自前の大根の葉のお惣菜を猟師の友人に送りました。そしたら友人から猪の肉をもらいました(もちろん獲れない年もありますが、今年は既に12頭だとのこと!)。「干物と大根の葉」が「猪の肉」と交換されるわけです。そこに貨幣は介在しません(もちろん場合によっては貨幣が介在する場合もあるかもしれませんが)。

 

 

 

 まぁそんなわけで何が言いたいのかというと、消費者にとっての物価高だけでは見えてこない世界が生産者の世界にはあるということです。ただ、誰もが何かを生産するわけではありませんし、野菜や肉を生産することだけが重要だというわけではありません。干物屋さんの例にもあるように、何かしらの入手ルートをもっていたり、特別な信頼関係からサービスを提供できることも、広義では生産と言えるのかもしれません(もちろん不適切な関係であれば適度な距離を置くことも重要ですが)。

 20世紀後半にもなると、市場経済というものが世界各地でスタンダードな価値体系となっていきますが、それは逆の見方をすれば市場の動向に大きく左右される生活を送ることになるわけです。実際、わたし自身も東京生まれ東京育ちだったので、モノは買うものという意識が強くありました。ただ、モノは買うだけではなく作ったり、交換したりもできるわけで、社会/文化人類学に触れているとそういう世界観を強く意識しますし、わたしの周りの研究仲間も、なんと農家のような生活を送っていたりします。身近な例だと安渓先生も、坪郷先生も、阿部さんも、張平平さんも、二文字屋さんも…と枚挙に暇がありません。

小関隆「第3章 「豊かな社会」とニューレフト」『イギリス1960年代』中公新書(2021)における、「ニューレフトが特に懸念したのは、『労働者が生産者としてよりも消費者として自己を認識する』ようになること」という部分は非常に響きます。J. ボードリヤールではないですが、20世紀の消費社会化を通して、われわれはモノや記号によって、自分が何者であるかを語るようになってきました。どのブランドの服を着て、どのような場所に住み、どんな車に乗って、どのような場所に遊びに行くのか…。このような部分には、何も「生産」的な要素は入っておらず、「消費」に重きが置かれています。そして交換する相手も顔が見える存在というよりも、誰とでも等価交換をするような相手ではないでしょうか。

 芋を作る、米を作る、猪を獲る、魚を干物にする、音楽を演奏する、大根のお惣菜をつくる…と、なんでもよいのですが、自分が「消費者」ではなく「生産者」であることは、この消費社会を生きる上で大切な気づきを与えてくれる気がします。つまり「消費」ではなく「生産」を通して、他者と交流し、自分が何者であるかを認識するのは、市場に支配されないカタチで自分を語りうることができるためです。

 なんか仰々しくいろいろと述べたような気もしますが、そうなってくると市場の物価高は、あまり気になりません。つい先日、実家がある東京に行ったらイチゴがセールで1パック1,800円で売られておりました。高いですが、他に選択肢がなければ買わないと生活は成り立ちません。さすがにイチゴは買わずとも、他の野菜とかであっても物価高においては市場の言いなりです。もちろん水道光熱費やガソリン代は田舎暮らしにとっても痛手ですが、この地域には井戸水を使っている家や太陽光で自家発電している家も多いです。また家の暖房をペレットストーブや薪ストーブにしている家もあります。

 

 

 市場経済を否定するわけではないですし、市場経済がもたらしてくれる恩恵には大変感謝してます。そして記号的消費も大好きです。やっぱりブランドものだったり、老舗メーカーの商品は憧れをもったり、敬意を払ったりしている自分がいます。ですが「これだったら自分でも作れる」とか、「これは~~さんからもらえばいいや」とか、「ここで売られている~~より市場に出回らない~~さんからもらうモノのが身体が喜ぶんだよなぁ」といった感覚は、消費者としての自分だけでは得られない感覚であり、「あっちの店の方が~~円やすい」とか、「今日は~~の特売日だから行かなきゃ」とか、「安いけどこの出品者の商品は不安だなぁ」といったような市場の奴隷としての生活だけでは味わえない喜びがあります。現代人は市場経済から切っても切れない関係にありますが、せめて奴隷ではなく、もう少し自由度が高い立場にありたいものです。そのために「消費者」であり「生産者」でもあるという意識は重要なのではないか、と思ったりしてます。