ここのところ、実は断酒をしておりました。実はというほどではないのですが、しばらくお酒を飲むことから離れておりました。何か強い理由があったわけではないのですが、1月に起きてしまった二日酔いをきっかけにお酒をしばらく断つことにしました。これはかなりわたしにとっては珍しいことで、それまではほぼ毎日のように(量の多少はありますが)飲んでおりました。
その後、断酒は1か月ほど続き、そのまま続けていく予定でしたが、東北に出張した際に、旅先でやはりどうしても地元のお酒を飲んでみたくなり、断酒期間が終わりました…。意志薄弱…なのではなく、断酒を破るという強い意志をもつともとれます!いつもは山口の日本酒を飲んでおり、山口の日本酒は、もうだいたい蔵元やその個性、味の違いも分かるようになってきました。せっかく東北に来たのだからということで、日本酒に手を出してみることにしたわけです。

断酒以前から、うすうす感づいていたことですが、わたしはどうしても醸造アルコールが苦手だということがよくわかりました。体調を崩すのです。これは高級なお酒であっても安価なお酒であっても基本的に同じで、醸造アルコールが含まれていると、翌日、あるいは飲んだすぐ後にお腹を下したり、体調を悪くしたりします。

一方で、純米酒の方は身体にダメージを受けることはありません(飲みすぎればもちろんダメージはありますが)。繰り返しになりますが、これは価格や種類に限らず基本的に醸造アルコールの有無で身体が反応します。吟醸であっても、大吟醸であっても、特別本醸造であっても、やはり醸造アルコールが入っていると身体がよい反応をしません。これまであまり意識的ではありませんでしたが、改めて断酒期間を経て、このことを再認識しました。
もちろん、醸造アルコールは決して「悪者」ではないことは理解しております。おそらく「科学的」あるいは「化学的」には問題ないのでしょう。しかし、わたしの身体は間違いなく反応します。これは面白いことに、ウヰスキーや焼酎といったアルコールに対しては拒否反応を示さないので、日本酒に加えられる醸造アルコールに特化したものといってよいかと思います。
文化人類学者のラトゥールは『実験室の生活』(1979)にて科学実験室と実世界との「結果」の相違を次のように描いています。すなわち科学実験室にて実験器具を用いて適切な作業を行った後、導き出された(同書ではTRFペプチドに関する)結果としての事実は、今度は病院や工場といった社会生活という「実験室」において改めて観察され、結果として導き出されるべき事実でもある[Latour and Woolgar 1979:180-182]、とのことです。そして少なくとも、わたしの身体という「実験室」では、醸造アルコールは「有害」なようでありました。
もちろん、このような反応はわたしの身体にだけ起きていることかもしれないですし、他の人は別の「世界」を身体として持っているのだから問題はないのかもしれません。しかし、花粉症、アレルギー、アナフィラキシーなどなど、それぞれの人はそれぞれの身体を有しており、一定程度の母数がいることでしょう。インターネットで調べてみると、それなりに醸造アルコールを受けつけない(純米酒はOK)という人も散見されるようです。しかし管見の限り、公的機関や研究報告として日本酒における醸造アルコールの問題を指摘しているものは見当たらないような…。業界との兼ね合いがあったりするのか、情動的な問題なのか、ここら辺は非常にハイブリッドなものとしての「科学」を感じてしまったりします。
近代的な教育システムの中で幼少期を過ごしたため、わたしはどうしても、一定の指標や量的なデータ、「客観性」に目を向ける傾向にあります。ただ、もう少し丁寧に身体(という宇宙でしょうか)に目を向けたり耳を傾けたりしてもよいかな、と改めて感じる昨今です。ただ誤解を招くといけないので付言しますと、あくまでも一定の指標、量的なデータ、「客観性」の重要性を認識したうえでのお話ですので、安易な「科学」批判や「近代」批判ではありません。念のため。
ただ「ワンカップ」系の醸造アルコールはダメージがほとんどないので、醸造アルコールの種類によって違うのか…、だとすれば原材料を「醸造アルコール」とひとくくりにしてしまうのは雑すぎません?とも思いますが、とりあえず経過観察ということでお許しを。「実験」は続きます。
そんな日々是好日です。