【其ノ十一】「物々交換」

 田舎で暮らすと「物々交換」が多くなります。しかし、これは市場的な意味での物々交換では全然ありません。ここでの「物々交換」は、即時決済されるわけでもなく、交換物より交換の行為に重きをおき、匿名ではなく特定の誰かとの交換であり、どちらかというと利益より損失に重きを置く、信用交換のことを意味します。

 

 先日も、農家の友人Yさんから、「夏野菜は何やってます?」という連絡があり、キュウリ、ピーマン、パクチーなどをいただきました。この「何やってますか?」というのは、たとえばナスやってます、というと、ナス以外をくれるというわけです。

 ということで「仕事帰りに寄ってください」と言われ、巨大な(笑)キュウリをいただきました。自転車の後ろに籠ごともらって持って帰ります。ピーマンはその日のうちにドライカレーの具材に、キュウリとパクチーは中華風の漬物にしていただきました。

 

 

 この野菜交換、仲が良いと、なんと同じ品物でも行われたりします。つまり、玉ねぎと玉ねぎを交換したりするのです。妻は友達と「玉ねぎ交換しましょ♪」と言って、玉ねぎを交換し合っておりました。そこには何の交易的なメリットもありません。交換物ではなく、交換という行為そのものに意味があるのです。

 こんなことを話すと、やはりレヴィ=ストロースの南フランスのレストランの事例を思い起こさずにはいられません。

  

 安レストランのテーブルを挟み、見知らぬ同士が、一メートルにもみたない距離を介して向かい合わせに座っている(テーブルを個人が独り占めすることは有料の特権であり、この特権は一定の料金以下ではとても与えてもらえない)。―中略―名前も職業も社会的地位もわからない人物はやりすごすのがフランス社会の習わしであるが、小さなレストランでは、そのような人物たちがほとんど肩を寄せ合うようにして一時間から一時間半も同席することになり、ときとして馬が合うというので一つに結びついたりする。孤独を尊重しなくてはならないとする規範と人が集まっているという事実とのあいだで、ある種の葛藤が向かい合って座っているどちらの側にも生じている。―中略―目に見えない不安がどうしようもなく兆してくるだろう。―中略―ワイン交換はまさにこのつかの間の、しかし困難な場面に決着をつけてくれる。

 小瓶にはちょうどグラス一杯分のワインが入り、この中身は持ち主のグラスにでなく、隣席の客のグラスに注がれる。するとすぐに相手も同じ互酬的ふるまいで応じる。さていったい何が起きたのか。二本の瓶の容量はまったく同じで、中身の質もさして変わらない。この示唆に富む場面に登場した二人の人物は、結局のところ、自分のワインを自分で飲んだ場合と比べてべつになにも余分に受け取ったわけではない。経済的観点から見れば、どちらが得したのでも、どちらが損をしたのでもない。しかし交換には交換された物品以上のものがある。

(福井和美訳『親族の基本構造』のpp.146-147より筆者が再配置して抜粋)

 

 そんなわけで野菜をもらうわけですが、野菜を使い終わると野菜の籠だけが残ります。さて、この籠だけを返すのも気が引けてきて、何かお返しにということで、パン(県産小麦)を焼いてYさんのお宅に届けます。

 

 

 こういう行為を行うと今度は、籠というモノのもつエージェンシーを感じずにはいられません。籠というモノがわたしを動かすというお話です。人間はモノを動かすようでいて、モノに動かされてもいます。籠がなければ次の交換は行われなかったでしょうが、この籠があるために新たな交換が生まれていきます。

 さて、こうした「物々交換」ですが、これまで一般的に経済学や世間の理解では、市場的な物々交換というと次のような順序で経済が発達してきたというように理解されてきました。

 物々交換 → 貨幣 → 信用

 しかし、近年、文化人類学の研究領域ではこうした考え方に疑義が唱えられており(グレーバーなどから)、次のような順で経済活動が発展してきたというように論じます。

 信用 → 貨幣 → 物々交換

 もちろん異論はあるでしょうが、わたしはかなりグレーバーの考え方を支持しております。そもそも市場的な物々交換は、めちゃくちゃ難しいのです。市場的な物々交換は、自分が欲しいものと相手が手放したいものが一致しなければ成り立たないからです。そのため、まずは信用からモノの貸し借り、農作物のやり取り(ここでいう「物々交換」)が行われます。そこでは即時決済されることなく、信用交換が続いていくわけです。

 その貸し借りを忘れないように記述し、可視化し、物質化し、定量化したものが貨幣であり、貨幣によって価格が見えるようになって初めて、市場的な物々交換に至るというわけです。冠婚葬祭後のカタログギフトなどは典型的なモノの返礼ですね。価格帯という定量的なものに置き換えたうえでのモノの返礼になります。

 さて、先のYさんとわたしのやりとりは、典型的な「物々交換(信用交換)」です。貨幣が介在する以前の信用に基づくモノのやりとり。いただいたものは、すぐに返礼せず、ゆっくり時間をかけてから返礼します。その間、わたしとYさんの間には、籠というモノの存在が関係が続いていることを可視化してくれ、関係をすぐに消すのではなく、一定時間たってから後、関係を不可視化することで、両者は良好な関係で結ばれるわけです。もし嫌いな相手であれば、そもそも野菜をもらわないし、もらってもすぐに「決済」します。

 

 すぐに恩を返すこと。これは相手と縁を切りたい、関係をすぐに解消したいということの表れでもあります。ですので、まずは籠を数日置いてから後、返します。文化人類学的にはよくある話ですが、日常の中にもこうした小さな事例はあふれております。特に農村部はそんな感じでしょうかね。こんな当たり前のことをこうして言語化してしまうのは、職業病なのかもしれません。

 

 そんな日々是好日です。