例年、山口大学人文学部、民俗学文化人類学研究室では民俗調査報告書を刊行しているのですが、今年は山口市の秋穂地域を対象に民俗調査を行いました。基本的に学生が主体となって作成し、報告書が完成するわけですが、教員も「はじめに」「おわりに」「編集後記」などを担当いたします。
ということで、何かしら書かなければいけないのですが、今年はせっかくの秋穂地域なので、山口大学とも?わたしの自宅(引っ越し前・後)とも?ご縁がある、秋穂街道(御上使道)について書くことにいたしました。意外や意外、この秋穂街道に関する記述はたくさん出てくるものの、図は少ないので、二次利用として使えるように、このBLOGにも記載しておこうと思っております(こちらの図は、ご自由にご利用いただいて構いませんが、出典は適切に表記してください)。
山口大学は図には入れなくてもよかったのかもしれませんが、山口大学人文学部が作っているものですので、その点はお許しください。以下は報告書の本文および図になります。
秋穂街道は、豊後(大分県)等から山口へと続く道だが、豊後から来た船が到着するのが、現在でも秋穂の小字の地名になっている髪解橋であった。山口を目指す人々は、瀬戸内海を渡ってきた船をここで降り、髪を整え陸路を北に進んだのである。秋穂の船着き場から北へ進み陶の峠を越えて椹野川沿いの平地に出ると、その道を今度は東へと進む。このあたりに今でも当時の秋穂街道を彷彿とさせる石碑が残されており、そこには以下のように記されている。
右あいをみち古橋願主富村浄念典日本回国石橋願主、豫州松山桑村郡安用村善衛門、文化七年(1810年)午ノ二月吉日
現在の石碑は正面を南面させているため、おそらくもともとあった場所から移動されてきたものと思われる。石碑の文言や地理的条件から推察すると、陶の峠から降りてきて現在の県道200号を北進し、椹野川沿いの道とぶつかるところに、この石碑があったのではないかと思われる。その際、石碑は北側を向き、「右あいを」はまさに陶の峠の方を指していたことであろう。
この石碑は回国塔と呼ばれるもので、平川史談会の解説では、四国松山(豫州)の行者である善衛門が、全国を修業して回る中でこの地に立ち寄り、住民とともに石橋を造るという偉業を達成したことが記されている。この記述に従えば、大分(豊後)のみならず、松山(豫州)の方からも秋穂を「海の玄関口」として経由し、陶峠を超えて山口へと向かっていたことがうかがえる。
さて秋穂街道(御上使道)は椹野川の平原を東へ進み、現在の山口大学の辺りで椹野川を渡る。ここの地が現在でもバス停の名称として残っている「あいわたせ」である。「あいわたせ」とは、その音からも推察されるように秋穂渡瀬(あいをわたせ)、すなわち秋穂に行くために椹野川を渡るための場所であった。山口大学と秋穂の関係がこうして一本の道で結ばれていると思うと、いつもの通学・通勤路も感慨深くなる。あいわたせで椹野川を超えた後、袖解橋にて衣服を正し、家臣、特使、参拝者、行者などは山口の街へと入っていったのである。秋穂街道は実に山口大学や学生教職員の生活圏とも接しており、今回の調査は浅からぬ縁があると何度も感じたものである。
以上は、小林宏至 2023「はじめに」山口大学人文学部社会学コース編『山口市秋穂地域民俗調査報告書 山口地域社会研究シリーズ57』pp.2-4 より
そんなわけで、ひとり秋穂街道を体験すべく、山口の方から秋穂の方へもくもくと歩いていきました。登山靴が必要なほどではないですが、舗装されていない、石や岩場が多いので、トレッキングシューズの方がよいですね。かつての旅人たちも、このルートを歩いて通ったと思うと感慨深いです。当たり前すぎて考えもしないことですが、やはり舗装された道路は歩きやすいですし、平坦な土地は非常に扱いが楽です。身体を通して体験すると、文章でのみ知りえていた秋穂道が、3D化するというか、グッと実感を持って読み込めているような気がいたします。こういうとき身体のメディアとしての役割の重要性を改めて感じます。
そんな日々是好日です。